ミュージカル「生きる」観劇その1
やっとこさ内容に触れる。
映画版は観たことないまま劇場へ行きました。
なので映画との比較とかできない。
しかも市村×小西組しか観てないのでキャスト比較もできない。
ただの感想。
…っていろいろ書くつもりだったんですけど市村勘治だけで3000文字行きそうなのでそのことしか書いてないwwwww
市村正親様を生で観られたというだけでもわりと自慢できるのに「生きる初演で観た」となるとこりゃあ後世まで語り継げるなあ…ってくらいすごかった。
すーーーげぇボソボソ…ってしゃべるし、胃がんの宣告される前からヨボヨボ…ってしてる(笑)生気がないw
すーーーーーーーげぇボソボソ…ってしゃべるのに何言ってるか2階席でもちゃんと聞き取れるあたりにレジェンドさすがっす…脱帽…ってなった。
唐突ですけど、キャストの組み合わせが発表になった時、完全Wキャスト内で陰と陽のバランスとった組み合わせだな、と思ったんです。
鹿賀さんはどっしり重厚、市村さんは陽気で明るい。
新納さんは華やか明朗、小西さんは憂いと色気。
完全にそういうイメージじゃないですか。
だから、鹿賀さん(陰)新納さん(陽)、市村さん(陽)小西さん(陰)のペア固定なんだな、って。
したらば。
いや市村さん元気出して!?!?!?
おじいちゃんじゃん!?
実年齢より若い役なのに御本人よりだいぶ老けてるのis何。
市村さんの勘治は無趣味っぽくて、かといって仕事人間でもなくて、よくわからない…。
普通にしているだけなのに真面目と言われて生きてきたタイプに見える…。
自分にとって何が楽しくて何が嬉しいのかいまいちわからないままここまできてしまった、毎日に不満は無いし家庭だって大切だけど。
まあ、定年間近でなにをするにも意欲が出ないお年頃なのかもしれませんけど。
たぶんもともと胃腸は弱めだと思うこの勘治。←
質素につつましく暮らし、これといって楽しいこともないが悲しいことも無いのでまあ不満は無い。
あと半年で死ぬと言われて、何が楽しいのか知らないからいっそ自殺しようとしたり、夜の街で出会った見ず知らずの妖しい小説家に大金を渡して「金の使い方を教えてくれ」と指南を頼んだり。
遊技場からストリップまで盛り場めぐりをしても楽しめずなんならどんどん苦痛が増していく、周りの人間たちはみんな楽しそうなのに自分だけはどうしようもなく空しい。
私の知ってる市村正親とちがう…。ってなったんですけど、それ故に、一幕ラストのソロが感動的!!!
は~~~これがレジェンド…!!!!!
舞台の上、一人で歌う、それだけで。
こんなにも胸に迫る!!!
感動ってこういうことか。と。
マジでそれまでは泣く感じじゃなかったのに、歌い出したらもうオペラかまえるどころじゃなかった。セルフエコノミー(伝わるのかこの表現)。
一幕終わった時点でスタオベしたくなるような歌唱。
それまで後輩のキャピキャピ女子に「ミイラ!^^」って無邪気に渾名されるような生きてんだか生きてないんだかわからないような男が、死を前にして初めて目覚める。
そう目覚める。
彼にとって公園を作ることはまさしく自分の生きた証を残せる唯一のもの。
使命であり、これを果たさねば死ねないというような熱意あるいは執着でもって取り組むようになる。
反面、これが終わったら悔いなく死ねる=公園つくり終わったらすぐ死にそう、でもあるんですけど。
陳情にきた主婦たちと役所の中で右往左往したり。
イヤミな助役につきまとっては公園の建設を頼み込んだり。
ヤクザに殴られても諦めずにどうしてもと粘って。
自分にとっては一円の得にもならない、面倒が増えるだけなのに。
何かを成し遂げなくては、ここで諦めては、これまでの自分の人生に示しがつかない。
他人がどうとかあまり関係なくて、ただ自分が決めた道をゴールに向かって突き進む、有終の美を飾ることが目的っていう感じがした。
自分の中に、公園を作ってそれが子どもたちの遊び場になって、笑顔や笑い声があふれて…っていう、明確なビジョンがあって、そこへ向かっていくことが主題なので、最悪つくるものは公園でなくても良かった。
ただ、公園を作るということにあれだけ熱意を燃やせたのは、勘治の中で息子との大切な思い出があったから、ではある。
あとこの勘治は息子(光男)のことを「子ども」だと思っている。
就職して結婚して子どももできて一人前の男といわれるような状況になっても、「子ども」だと思っている。
たぶん劇中で一番輝いている場面として「ブランコを押してやると、息子が初めて笑顔を見せた」という回想が語られる(っていうか歌われる)から、その息子をどこかで今の息子にも透かして観ているような気がしてならない。
ちょっと頑固おやじっていうか不器用で口下手な感じがある。
「言わなくてもわかってくれるだろう」っていう甘えにも似た感覚があって、それは息子も同じで、「何も言わなくてもわかり合えていた」って実際歌ってるんですけど、息子が。
似たもの親子なのかな~、ある意味。と思う。
勘治が歌うナンバー自体はソロ3曲のみなんですけど、どれも見事に名曲っていうかメロディとか歌詞がどうこうじゃなくて、役に透かして我々が役者を見つけてしまうような生きざまが出ていてこれがレジェンド…と。
これが感動するっていうことなのか、と。
何がくるかわかっていても泣いてしまう。
歌に説得力があるっていうか、物語の中から今これを見ている現実の私の現実に抱えている悩みとか不安とかもやもやにまで突き刺さるような。
「これは私のための歌だ」と思わせるほどの。
「生きることはそれだけで美しい」みたいな歌詞が最後にあったんですけど(たぶん)、もうそこにあったのはすべての人々への救いって感じでこりゃあ生きるしかない。
市村正親がそういうならそうなんだろう。じゃあもうちょっと生きてみよう。って思わせてくれるほど。
歌ってない時は普通のおじいちゃんなんだけどな!!!
助役がトイレ行ってるところにまで付いて行って「お願いします!><」って提案書出してるのかわいい過ぎて。
舞台写真にあのシーン入れてくれたのほんとにありがたいwww
表情が絶妙。かわいい。あんな子犬顔されたら断れないwwww助役の強い意志w
いやもうほんとに勘治と出逢っていろんな人の運命?命運?人生がどんどん変わっていくっていうかさざ波のごとくいろんな人に影響を与えて、たとえば公園がそこに出来なかったとしても勘治が生きた証はその人びとの胸に生き方に残されるだろうよ、って気持ちになった。
目の前の仕事に本気で向き合えば、生まれ変わったつもりになれば、人生は変わる。
そう例えば勘治のようになにかをつくるとか誰かの頼みを聞くとか具体的なことじゃなくても、惰性じゃなくて真摯に向き合えば、そこに新たな意味を見いだせるかもしれない。
ちょっと個人的に転職して仕事のやりがいとかに思うところがあったので刺さりました。
あー。そうだよなー。
自分が本気で情熱をもって命を燃やしていかないとそりゃあただただ日々は過ぎていくよなー。
勘治だって、胃がんで余命半年と言われて(言われてはないけど)、それまでの生き方が間違っていたとは思っていないわけで。
ただ、この生き方はあと半年しか生きられない人間の生き方じゃないっていうだけ。
日々生活を送るにあたっては支障がない。
たぶん今生きている我々もそう。
日常生活には支障はない。
仕事にすごく情熱やビジョンや夢や希望があるわけじゃなくたって、生活に大きな変化があるわけじゃなくたって、劇的な運命的なロマンチックな出会いでもって人生が変わるようなことがあるわけじゃなくたって、生きていける。
でも、あと半年で死ぬとしたら。
このままでいいのだろうか。
今の生き方はあとどれくらい生きていくと思って生きている?
今まで生きてきた中で自分は何をしてきたのか?
まさしく「生きる」とは、なんだったのか?なんなのか?
その土台を背負うのが主人公たる勘治なんですけどもうこれはその人の生きざまが出る役なんじゃなかろうか。
やっぱり市村さんの存在感っていうか物語、台詞ひとつ、音ひとつに力とか気迫とかそういうものを持たせられる役者ってそうそういないと思うんですけど経験とこの舞台この脚本この役への理解や解釈やそういう積み上げてきたすべてのものが2時間の中に凝縮されているなと思う。
良いもの見たなーって素直に思う。
観て良かったなーって。
もう場面ごとに語りたいこといっぱいあるんですけどちょっとそれやり出すと終わらないのでw
夜の楽園(小説家に夜遊びを教えてもらうシーン)で、どんどん沈痛な面持ちになっていく勘治と、その様子に興醒めしていく小説家の対比とか。
息子夫婦とのすれ違いとか、妻の遺影に歌うゴンドラの唄とか。
一幕最後「2度目の誕生日」の、まさしく生まれ変わったかのような覚醒した歌声と目に光が宿って静かに燃え始める魂、めざめた新たな渡辺勘治の鮮やかさとか。
カーテンコールで、終幕時にブランコに置いて行った帽子を取り雪を払うしぐさが死ぬほどカッコよくて惚れるしかないとか←
燃え盛るとか火花が散るとか言うよりも、ろうそくがどんどんと燃えて尽きていくような印象の渡辺勘治でした。
いやもうほんと語りつくせないとはこのことか、ってくらい。
まさかこんな長さになるとはwww
まだもうちょっと続く予定です、「生きる」記事。
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