ぜんぶ盛り

推しへの愛が素直。

フランケンシュタインで気がふれた一人の観客が考えるビクター、アンリにとっての「神」と研究

やっほー。16日なら名古屋足せるな…とこの期に及んで通帳と手帳とにらめっこしている私ですよ。

東京初週しか観ていないのに気が狂いっぱなしです。えっ、約1ヵ月。こわ。

 

タイトルそのまま。

信仰と宗教が身近にないので、序盤の研究所でアンリがいう「神はお許しにならないでしょう」という言葉にわりと引っかかってしまったので考えた。
キリスト教に疎い私がイメージだけで語る。

あと、ビクターの研究は同じ手段でも目的が「生命創造」と「死者蘇生」のふたつに分かれているのではという話。

 

あっきーと加藤さんは神を信仰しているけどかっきーと小西さんは神を信仰していなさそう。キリスト教徒的な思想はベースにあるが、神に対しては懐疑的。

あきビクターはクリスチャンぽいけど柿ビクターはまさしく「神を信じている(信仰しているとは言ってない(信仰はしてない」。

でもまあ、あきかずも「天に神はいるとして、それはそれ」って感じではある。

 

  • あきビクターと「神」

あきビクターは神という存在を信じている。でも自らの研究が「神の領域」に手を出すことであるという禁忌を犯している感覚は持っていない。「生命創造を自らの手で成し遂げる」という意志があり、それを可能にする頭脳を持っていたので目標にまっすぐ突き進むのみ。おそれを知らない。恐れる必要がない。ビクター・フランケンシュタインは天才的科学者だから。リトルビクターが「僕が生き返らせる」と笑顔で言ってたのがしっくりくるタイプ。純粋で無邪気。できるならやればいい。技術的に可能であれば倫理的な問題そっちのけで進化を求めるし、それを実行する。

あきビクターにとっての神が与える「呪い」とは「試練」みたいな意味で、克服するために与えられている(克服できる、自分の手でどうにかできるもの)。

神との距離感が近いが故に、「戦ったら勝てそう」。そしてあの結末である。

 

  • あきビクターの研究

あきビクターは「生命創造」と「死者蘇生」が繋がっていない印象を受けた。
実験体たちはその言葉の通り実験のためのもので、死という人類の脅威であり人体に起こるバグを克服するために実験を行っている。この実験は、自分の知的好奇心、探究心のため。あと「これを成し遂げれば理解してもらえる」という、周囲への反発というか、自分と近くにいる人びとへの落とし前?

人生を懸けて成し遂げるべき仕事。


それとは別に、「大切な人を生き返らせたい」という意志がある。

なんかジュリアの犬のくだりとか、ポップな感じで蘇生させてない?えっ、死んじゃったの?悲しいの??じゃあ生き返らせたらいいじゃん!そしたらみんなハッピー☆ミみたいな。
死をバグ扱いしている節がある。

アンリを生き返らせたいと思って生み出したのが「怪物」だった。「『アンリ』ではなく怪物という認識」だから、首に鎖を巻き付けるのもけっこう躊躇なく割り切ってしまう。「生命創造」としては成功に近いが、「アンリの蘇生」としては失敗。

あきビクターが求めているのは「死ぬ直前」から継続した人間。その人の続きを始めようとしている。

そのために愛する人の首というか脳が必要。脳の中身が同じなら一時停止した生命を続きから再生できると思っている。

なので、怪物が「ビクター」と呼びかけたあの瞬間。

あきビクターの実験は今度こそ成功したと確信してしまった。やっぱアンリだったんじゃん!!!って喜びさえ見出す。

怪物が「怪物」として生きてきた経験や時間を認めていない。アンリの部分だけを見ている。「怪物」としての人格を認めていない。ひどい。

  • 柿ビクターと「神」 

柿ビクターは神という存在を認めているけど、台詞にあるようにまさに「呪いを与える」存在、人類の上位互換的存在として神を見ている。

だから「偉大なる生命創造の歴史が始まる」でめちゃくちゃ神に喧嘩を売る。本来は抗うこともできない存在に対して、その意志に反するような研究をともにをしてきた親友の首でもって、神の領域を侵す。

人が死ぬことを神の呪だと思っている?

神に対して畏怖とかは持っていないが、あきビクターと比べて倫理観は備わっているというか、世の中の人びとの言っていることの理解は出来る。(共感はしないし、理解しているからと言って納得はしていない。無意味なことを…とか思ってる。)(余計たちがわるいのでは?)

  • 柿ビクターの研究 

柿ビクターは、「生命創造」という研究の最終地点が「死者蘇生」。そこは一つに繋がっている。

「喪ってしまった大切な人」をより完璧に近い状態で蘇らせるための研究。

柿ビクターは表出の仕方としてはひねくれてるけど思想はまっすぐ。

アンリを生き返らせるときは、「失敗したら永遠にアンリを喪う」という恐怖を狂気でくるんで科学者としてなんとか立っているような。精神的には狂わなきゃできないのにやってることは正確かつ緻密さを求められ、一つのミスも許されないという極限。

親友を生き返らせたいだけだったのに、悲劇の連鎖を止められないのが柿ビクター。

自分の研究自体は、一般的な感覚からすれば理解されないことだっていうこともわかってはいるが、それでも自分の大切な人のためにはやり遂げなくてはならない。っていう結局自分のためなのでは…。

 

  • 和樹アンリと「神」

加藤アンリに関してはビクターを神認定している。イキイキすな。相手は人間だぞ。生身の人間を信仰の対象にしてはいけない。(推しを宗教にしがちなオタクからの戒め。)

あきビクターは神になるっていうか僕が創造主だよっていう自覚があるからまだいいんだけど、柿ビクターは人間なので、「ただの人間に自分の人生を背負わすな!!!」と思う。そいつはわりと繊細なつくりでできているぞ!!!よく見て!!!!!
世に言う神もいるというかふつうにキリスト教的な考え方をしているように思う。
たぶんビクターと出会う前は敬虔なクリスチャンなんだけど、だんだんビクターを神聖視しはじめる。
自分と同じ研究をしている人を諌めるときに「神はお許しにならない」と持ち出すほどの圧倒的存在である”神”を畏れることなく挑むビクターへの尊敬、憧憬が信仰へと変化していく感じ?
たぶん世間からめちゃくちゃ非難を浴びたであろう研究を肯定してくれて、同じ理想に向かってガンガン進んでいくビクターが横にいたら、そりゃアンリからしたら神にもなる。(なるか?)
自分を否定する神より肯定してくれる神のほうが信じたくなるよね。
それまで確かに信じていた「神」の存在を凌駕するほどの魅力をビクターに感じて魅入られて改宗したアンリ。
君夢は殉教。ビクターを助けられるうえに実験の材料まで提供できるなら、ギロチンにかけられようが人殺しと罵られようが朗らかにもなるよね。(※1クール目しか見てない人の感想です。)

 

  • 小西アンリと「神」

小西アンリは神という存在に懐疑的。神に救われたことは無いので。おとぎ話感覚。サンタクロースみたいなもの。べつに本当だとしても自分には関係ない。

いやでも小西アンリの『教会がやってる孤児院の前に捨てられていた』感すごいからどうだろう(???)

ビクターに言う「神はお許しにならないでしょう」、たぶん自分が論文発表したときもめっちゃ言われたんだろうな。

別に本心でないというわけではなくて、医者としての臨床経験から出てきた言葉のような気がする。目の前で死んでいく人を見て、生命に対する無常観というか「そうあるべきもの」という認識を持ているような。諦念?「生は死をもって完結する」みたいな。

人としての倫理観はあるので、生命を創造することは禁忌という感覚は持っている。科学が力を持ちすぎることを懸念している。神にも人間にもいまいち心を許していない。

で、たぶん小西アンリは、人体接合の確度と精度を上げるために研究をするうちに、その技術を応用すれば生命を新たに創造できる領域まで踏み込んでしまったという感じだと思う。「生命創造」の可能性に対しての研究意欲と、まあそれを忌む気持ちとが戦った結果、それ以上は踏み込むべきではないと思ったんでしょうが。

小西さん自身はパンフレットにて「生命を創造することの罪」について言及していましたけれど、アンリ自身はそれをどう考えているのか謎。

「死によって完結した命を、生きている人間の一存で蘇らせるべきではない」とは考えていそう(なんせ希死念慮が強め)だけど、「魂が離れた肉体から新たな生命を作り出すこと」にはどうお考えなのでしょうか。DVDにコメンタリーとかインタビューとかつけてほしいような、でもたぶんそこは答えてくれない(観客にゆだねる部分)ような。

 

 

公式ペア同士は神との距離の取り方が近いのかなあと思います。

 

まあ、3公演観ただけの私の感じたことなので、全然違うわい!!!!!ってとこもいっぱいあるんでしょうけど。

語りたくなるのがフランケンの魅力。っていうか論文書きたがるタイプのヲタクに刺さるのがフランケンシュタイン、なのか?

 

名古屋&大阪公演、そしてDVDとまだまだ沼は続くので、今日のところはこのへんで。